サナトリウムの静寂

2003年12月17日


蒼い海から水面を仰ぐと
そこには泳ぐ彼女がいて
光を反射する水面の逆光に関わらず
いつものように笑っているのがわかった
老若男女が行き交う中で
彼女は常に特別な存在だったのだと思う


そのサナトリウムには
不思議なほど笑いが絶えなかった
誰に対しても笑う看護士の彼女
誰もが彼女を好きになった
彼もそのうちのひとり


彼女の誕生日が近い
同年代の男たちはみな
贈り物の選別に余念がない
何を渡せば喜ばれるのか
となりのベッドの学者なんぞは
どうやら高価なネックレスを購入したようだ
それにひきかえ彼には
金も
何もなくて
けれど
自分が一番彼女を想っている
そんな誰にも負けない気持ちがあった


となりの学者がはじめに彼女に出会ったのは
十年前に遡る
三つ年下というだけで
自分よりも随分幼くみえた
しかしそんな外見とは裏腹に
皮肉や雑言を口にしない彼女
迷惑をかける男の陰口を言って笑いかけ
同意を求めるともなく求めたとき
彼女はじっと口を閉じていた
自分がひどく子供に思えてしまって
学者は以来陰口をやめ
誰に対しても同じに接するよう努めた
動機は不純であったが
これまでどうでもいい と思っていた人々が
徐々に好きになり
大事な存在となった
いつしか学者は
彼女と同じように笑えるようになっていた
彼女はそんなふうに学者に
かけがえのないものを幾つもくれた


学者 と言ってもその頃はまだ学者ではなく
目指している道の途中
彼女の誕生日が近づくと
何か贈り物をしたいと願ったが
彼には何もなかった
だからいつでもひとこと
おめでとう とだけ
彼女はありがとうと微笑む
他の男たちは
大小さまざまな贈り物をした
彼女はありがとうと微笑む
彼女はいつでも誰にも同じに微笑む
学者は自らに歯噛みした
自分はなんと情けないだろう
看護士として皆に尽くす彼女
何もない学者は自らに歯噛みした
自らの不甲斐なさに歯噛みしていたのだ
ずっと
ずっと
十年もの間


十年たって
夢をかなえ学者は学者となった
彼女の誕生日に
初任給をはたいてネックレスを購入する
学者には似合う 似合わないの
センスがまるでない
おなじくセンスのない同僚に尋ね
女の子はネックレスが好きだと聞けば鵜呑み
清楚な彼女にネックレスは似合わない
金持ち連中が買うようなネックレス
そんなものが似合うわけがない
けれど学者はとうとう彼女に贈り物をする
ずっと
ずっと
ひとり耐え続けた
自らの不甲斐なさに
けれど学者はとうとう彼女に贈り物をする
十年間の
言い尽くせない感謝を込めて


となりのベッドの彼は
学者の棚に大事に置かれたその箱を
恨めしそうに睨み
叩き潰したい衝動にかられる
似合わないのだ ネックレスなんぞは
そうだ庭の花を摘んで贈ろう
彼は思いついた
何もない自分にとって
それはこの上ない良案に思えた
彼女にはそういった心のこもった素朴なものが
一番似合うような気がした
この先ずっと 
誕生日のたびに花を摘んで贈ろう
賢く優しい彼女は
きっとそうした小さな心遣いを分かってくれる
むしろそうしたものをこそ喜んでくれるはずだ
彼はベッドでうとうとしながら
明日の誕生日
彼女が浮かべる笑顔を思い
そんなことを考えていた


だから翌日
学者の渡したネックレスを見て
彼女の目が赤くなっていくのが
彼には不思議でならなかった
そんな成金趣味のネックレスを喜ぶ女だとは
思ってもいなかったので
彼にはそれが不思議でならない


いつでも微笑んでいた彼女が
はじめて泣き顔をみせたので
サナトリウムは珍しく静寂に包まれてしまった

 

 
 
 
 
 
  

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